旧山古志村への研修旅行 その2

 

車内に「公益財団法人 中越防災安全推進機構」の事務局長である玉木氏をお迎えし、長い道中に動画の視聴や講義をしていただきました。

復興は一種の社会実験だという思いで、

公共交通→住民が資金を出して、コミュニティバスの運営

過疎化、高齢化を受けて、雪下ろし(どうなった?)
すべての建物がとは言えないけれど、高床式というのか、土台、基礎部分が高く、そこが車庫や作業場所になっている。実質3階建てのような感じ。
また、屋根は瓦屋根に雪止めがあるところも若干見受けられたが、ほとんどが、トタン?の滑りやすい板材で葺かれていて、その一番高いところはさらに三角の出っ張りが。屋根に雪が極力積もらないように工夫されてました。

つまり、3~4mは積もると言われている豪雪地帯ですが、屋根には極力のぼらなくてもよいような作りにしてある。
作業小屋や車庫は丸小屋と呼ばれているようで、かまぼこのような形をしてました。こちらも積雪に強い作りになっていました。

地域ブランド

交流(都会の人と、地元の人)野菜の直売、農家レストラン、昔ながらの料理(直売、教室など)

 

新潟県中越大地震復興基金から地域復興支援員(のちの地域おこし協力隊の原型)やデザインセンターによって、人材やノウハウをその後の復興に役立てる

 

山古志村は地震以前から、人口減少、高齢化が進行していた地域だった。

復旧・復興はそういった地域課題とも向き合うことであった。

他人任せではなく、自分たちのことは自分で考え行動する。

目標は集落の存続。

専門家などの外部の力も借りながら、自分たちの思い描く集落の将来像を共有⇒「地域復興デザイン」

地域復興デザインを策定する過程で、集落内の対話が生まれ、住民自ら集落を再生しようという意識が高まる。

2004年10月 震災時の人口は2168人(2005年4月 広域合併で長岡市に)

2007年12月 全村復帰 1406人(約70%)

2014年夏 人口は1000人を割る(対して高齢化率は65歳以上の割合が50%近い)

ただし、移転した住民も、長岡市街地や小千谷市に住んでいる人が多く、30分前後で行き来できるので、旧村内へ通って仕事(農作業など)をしている人は多い。昼間の人口はそれなりにいる。