献血に行ってきました。

冬になると献血者が少なくなる。
風邪やインフルエンザ、胃腸風邪と昔は言っていたノロウィルスが流行ったりするからというのもあるらしい。

まあ、わたしも一回も風邪などにかからずに冬を越したことはない。

でも、今年は今のところ病院のお世話にならずに健康に過ごしています。

そんな時、友人が献血受付のボランティアをしていて、献血者が少ない、献血しに来て~と来たので、行ってきました。

 

久しぶりに言ったら、暗証番号から、静脈での認証が増えていたり、

献血前、後に水分の摂取が推奨されていたり、献血中に簡単な下半身を引き締める?運動がベットの上に貼られていたり、

あちこちがPC画面で連携で表示されるようになっていたり、受付から帰りまで手首にバーコードが巻かれたりとずいぶん変わっていました。

でも、看護師さんが丁寧に採血してくれるのは相変わらずです。
ここはいつまでたっても人の手なんですよね。

そして、科学、医療が進歩してたくさんの薬が開発されてきても、人間の血液でないとできない医療もたくさん。

健康であっても献血には年齢制限があります。
献血の種類によっていろいろあるようですが、私は400ml献血なのでその場合は、69歳までできるようです。(ただし、65歳から69歳までの方については、60歳から64歳までの間に献血の経験がある方に限られます。)

年齢制限かかるまで献血できるように、体調管理していきたいと思いました。

旧山古志村への研修旅行 その2

 

車内に「公益財団法人 中越防災安全推進機構」の事務局長である玉木氏をお迎えし、長い道中に動画の視聴や講義をしていただきました。

復興は一種の社会実験だという思いで、

公共交通→住民が資金を出して、コミュニティバスの運営

過疎化、高齢化を受けて、雪下ろし(どうなった?)
すべての建物がとは言えないけれど、高床式というのか、土台、基礎部分が高く、そこが車庫や作業場所になっている。実質3階建てのような感じ。
また、屋根は瓦屋根に雪止めがあるところも若干見受けられたが、ほとんどが、トタン?の滑りやすい板材で葺かれていて、その一番高いところはさらに三角の出っ張りが。屋根に雪が極力積もらないように工夫されてました。

つまり、3~4mは積もると言われている豪雪地帯ですが、屋根には極力のぼらなくてもよいような作りにしてある。
作業小屋や車庫は丸小屋と呼ばれているようで、かまぼこのような形をしてました。こちらも積雪に強い作りになっていました。

地域ブランド

交流(都会の人と、地元の人)野菜の直売、農家レストラン、昔ながらの料理(直売、教室など)

 

新潟県中越大地震復興基金から地域復興支援員(のちの地域おこし協力隊の原型)やデザインセンターによって、人材やノウハウをその後の復興に役立てる

 

山古志村は地震以前から、人口減少、高齢化が進行していた地域だった。

復旧・復興はそういった地域課題とも向き合うことであった。

他人任せではなく、自分たちのことは自分で考え行動する。

目標は集落の存続。

専門家などの外部の力も借りながら、自分たちの思い描く集落の将来像を共有⇒「地域復興デザイン」

地域復興デザインを策定する過程で、集落内の対話が生まれ、住民自ら集落を再生しようという意識が高まる。

2004年10月 震災時の人口は2168人(2005年4月 広域合併で長岡市に)

2007年12月 全村復帰 1406人(約70%)

2014年夏 人口は1000人を割る(対して高齢化率は65歳以上の割合が50%近い)

ただし、移転した住民も、長岡市街地や小千谷市に住んでいる人が多く、30分前後で行き来できるので、旧村内へ通って仕事(農作業など)をしている人は多い。昼間の人口はそれなりにいる。